2004年 12月 29日
大三十日(おおみそか) |
漱石虚子來る
漱石が來て虚子が來て大三十日 明治28年 子規
(そうせきが きてきょしがきて おおみそか)
12月8日 海南新聞に「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句が掲載されます。翌日虚子を道灌山に誘い、自分の文業の継承を依頼しますが断られています。飄亭へ道灌山での出来事を「今迄でも必死なりされども小生は孤立すると同時にいよいよ自立の心つよくなれり、死はますます近きぬ、文学はやうやく佳境に入りぬ」と手紙を送っています。
五百木飄亭(いおき・ひょうてい 1870・12・14~1937・6・14)本名・良三
現在の松山市日の出町で生まれる。県立病院付設松山医学校を経て、医術開業試験に合格。常磐会寄宿舎で子規や非風と知り合い俳句や文学に没頭します。日清戦争には看護長として従軍します。
日本新聞社に入社後は陸羯南と共に政治に関心を持ち、政教社を主宰し「日本及日本人」を刊行します。
漱石が來て虚子が來て大三十日 明治28年 子規
(そうせきが きてきょしがきて おおみそか)
12月8日 海南新聞に「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句が掲載されます。翌日虚子を道灌山に誘い、自分の文業の継承を依頼しますが断られています。飄亭へ道灌山での出来事を「今迄でも必死なりされども小生は孤立すると同時にいよいよ自立の心つよくなれり、死はますます近きぬ、文学はやうやく佳境に入りぬ」と手紙を送っています。
五百木飄亭(いおき・ひょうてい 1870・12・14~1937・6・14)本名・良三
現在の松山市日の出町で生まれる。県立病院付設松山医学校を経て、医術開業試験に合格。常磐会寄宿舎で子規や非風と知り合い俳句や文学に没頭します。日清戦争には看護長として従軍します。
日本新聞社に入社後は陸羯南と共に政治に関心を持ち、政教社を主宰し「日本及日本人」を刊行します。
by honnbako
| 2004-12-29 22:27
| 今日の一句